top pageothers>08.09_Vol02













 大分県の教員採用汚職事件は、不正合格者の特定と採用取り消し措置、そして不正合格のあおりで本来は採用されていた人たちへの救済、採用をもって一応の幕引きとなった。その後、約1ヶ月を経過して、このニュースを聞くこともなくなった現在、少し落ち着いて考えてみた。

 各メディアの報道を総合すると、以下のような内容だ。不正合格者の特定は、逮捕、起訴された義務教育課参事、江藤勝由被告のパソコンに残っていたデータが根拠となったが、一昨年(07年度)以前のデータがないため、昨年(08年度)のデータのみが採用された。
 その結果、不正合格者は21名に及び、内訳は小学校教員が14名、中学校が6名、養護教員が1名。1名は8月末にすでに退職しており、12名が退職を申し出た。残りの7名は臨時教員としての勤務を希望している。

 本事件のあおりを受けて不合格となった救済対象者は22名。内訳は小学教諭15名、中学教諭6名、養護教諭1名。県教委は22名と個別面談し、9月19日までに本人の意向を確認。希望者は10月1日以降、正式採用する。
 不正合格者が21名なのに、救済対象者が22名となったのは、不正合格者の1名が大きく加点されたので、逆にその分を減点された2名が不合格となっていたため。

 県教委の事情聴取の際、不正合格者のほとんどが自らの関与を否定し、どのような経緯で不正が行われたのかも思い当たらないと語った。

 教壇を去る際には生徒たちに直接、「先生は迷いに迷って辞めることを選んだ」と話した教師もあったし、保護者から救済の要望が寄せられたケースもある。

 一連の報道で事件の内実を知ると、多くのことを考えさせられる。まずは汚職が起こった原因だ。教員採用試験が閉鎖的に行われ、採用の可否判定が限られた人物に任されていたこと。その点は一定の改善が見られた。ここでも肝要なのは、とにかく制度を開いてしまうことだ。

 教員採用試験の内容にも危うさを感じた。教員に相応しい人物を採用する。そのために筆記試験以上に面接が重視されるという。教員に相応しいとはどのようなことなのか。それはどのように「測定」するのか。この「相応しい」との曖昧さの中に、今後も、採用する側の恣意が紛れ込む危険性はないのか。この部分も、試験問題や採点結果の公開だけでなく、開いていくべきだ。

 教員、教師とは、この社会において、どのような存在なのだろうか。かつては「聖職者」という言葉もあった。今でも、その名残はあるようだが、これも各メディアでの報道にあるように、モンスター・ペアレンツの出現などをみると、その言葉は死語となりつつあるのかもしれない。

 教師、先生も普通の生活者として生徒、学生の前に登場する。気持ちが落ち込んでいる時もあるだろうし、生徒、学生との相性もあるだろう。積極的に生身を見せる必要はないだろうが、隠せないことだけば知っていた方がよい。
 そのことはたとえ学齢が低い子供達でもよく知っている。子供達にとって良い教師とは、そんな、ごく「普通の人間」を見せてしまう存在だと思う。子供達は教師が「聖職」でないのをよく知っているし、それを権威として押し付ける存在を最も嫌っている。

 高校生の時だった。理由はすでに忘れだが、担任教師の下宿を訪ねた。そこでは普段は威張ってばかりいる体育教師や通勤車の中にエロ本があるのを見つけた数学教師達が麻雀をしていた。さすがにゲームに参加しろとはいわれなかったが、閉ざされた学校以外での彼らの姿をみて、親近感を感じたものだった。

 それからの学校での生活は少しばかり変わった。こちらの側の彼らの「秘密」をみたような思いと、彼らの側の少しばかりの「気恥ずかしい」からか、ことさらいう必要のないこともあるとの暗黙の了解のようなものが生まれた。
 そして忘れられないのは、彼らは皆、よい教師だったことだ。それは知識を押し付けるのではなく、知識を得るための方法を教えてくれたからだ。馬を水辺までは連れて行けるが、水を飲ませることはできないという。彼らは水辺までの道筋を示してくれ、水の飲み方を教えてくれたと思う。

 学校は生徒、学生にとっては不思議な通過点だ。決められた時間が経過すれば、そこを去っていく。そして獲得した知識は、何処かに遠のき、振り返り、残っているのは、そんな教師達とのふれ合いだけだ。

 最初の話題に戻ろう。今回の事件で、心ならずも採用取消となった教師の中には、特例として許され、学校へ残ることを決めたものもあった。救済されて教師として教壇に立つものとの関係も難しいものとなるだろう。
 願わくば、誰も経験しないような困難で苛酷な状況の中で、よい教師とは何なのかを考え続けて欲しい。たとえ結果的に学校を去ることになったとしても、そこから先に進む何らかの教訓を得て欲しい。事態は異なるにしても、これら苛酷な状況は誰にも突然、起こりうるし、とても人ごととは考えられないのだから。

 そして、最も重要なのは、これからの経緯を子供達がじっと見ていることだ。決して傷は全て癒されないだろうが、学校が社会から隔絶されてはいないのだから、起こりうることでもあった。社会には不平等もあれば、理不尽も多々ある。それらとどのように折り合いを付けていくのか。

 もう前向きに考えればよい。最大の犠牲者は子供達だとの論調もあったが、それは彼らに対して不遜だし、それほど子供達は柔ではない。今回の事件は、子供達にとって、最も優れた「社会教材」となる可能性もあるのだから。そして、そのことを実はよく知っているのは子供達だから。

[2008.09.22]

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