top pageothers>08.08_Vol01













  時の政権、権力への甘さが目立ち、やはり「国営放送」なのかと思うこともあるNHKだが、豊富な予算(皮肉を込めて)を背景に、優れたドキュメンタリー番組を数多く放映している。今年も8月15日の前後に、かつての戦争に関するドキュメンタリー番組を集中的に放映している。

 中でも最前線で闘い、激戦を生き抜いた一般の兵士達へのインタビューを中心に構成した番組は秀逸だった。レイテ、ガダルカナル、沖縄、マニラ市街戦など、そのどれもが軍事において最も重要な兵站を無視した大本営の机上の空論で闘われた実態が兵士達の証言で次々と明らかとなっていく。
 そして番組の最後は、「あの戦争は何だったのだろうか」との詠嘆で終わっている。何故、もう一歩、先まで踏み込めないのだろうか。それが唯一、これら番組を制作した人たちへの疑問だ。

 折から各新聞で、東条英機首相の手記が公表された。東京大空襲から生き残った母親から聞いたことがある。当時、東条英機といえば、街中を巡察する際には、白馬に乗り、まるで神のように振る舞い、陰口でもたたけば大変なことになると恐れられていたという。今回、明らかとなった手記には、そんな当時の国民を愚弄するかのような言葉が並んでいた。

 番組の内容に戻ろう。植民地だった現在の韓国では、青年達が計画的に集められ、アジア各国の捕虜収容所での監視員として送り込まれた。彼らの側にもこの徴集に参加すれば徴兵はされないのではとの戦時下での思惑があった。
 現地に赴く前の教育期間、指導と称して毎日のように「ビンクを食らった」という。我が国も批准していたジュネーブ条約の説明もなく、現地の捕虜収容所では、捕虜に対して「ビンタ」を加えることとなる。「ビンタ」を受けた自分自身も、それを教育の一環だと思うようになり、虐待とは思わなかったという言葉が悲しかった。やがて彼らはBC級戦犯として訴追され、祖国に帰れば対日協力者としての迫害が待っていたため戦後、その多くが国内で厳しい生活を送ることとなった。

 「大東亜共栄圏を構築し、欧米列強からアジアの人々を解放する」との使命に促され、戦地に向かった兵士の一人が証言している。敗戦濃厚となった戦地では米軍の支援で住民がゲリラとして組織されていた。ある住民が米軍のスパイとして家族共々、捕らえられた。少なくとも帝国軍人としての矜持から民間人は迫害しないとの信念を持っていた彼は司令部に彼らを残し、偵察に出た。帰還すると、彼らは婦女子共々、処刑されていた。「その頃から、この戦争は誰のために、何のために闘っているのか疑念が生まれた」と語った。

 彼も、その殺害に関与したのではとの疑いからBC級戦犯として責任を問われた。そして老境を迎えた現在、番組の中で「アジアを解放するのとは全く異なった行為を行っていた」「若い頃に信じたものを全て失った」と語った。

 戦地での組織的な抵抗が終わった後も、彼ら兵士の行動を規定したのが戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」の一節だった。この戦陣訓は1941年、当時、陸軍大臣だった東條英機が発した陸訓一号といわれる訓令で、帝国軍人としてとるべき行動規範が列記されていた。

 この戦陣訓についても一人の元兵士が語っている。彼は米軍から東条英機の身柄が確保されたことを聞かされ、投降した。「戦陣訓の大元の東条さんが虜囚となったのだから、自分のようなペイペイの兵士はもういいのではないかと思った」と語った。

 3年前に逝った父親は中国で7年間、参戦した。かつて若かった時に、慰安婦問題について論争したことがある。すると「人間には仕方ないこともある」「必要悪だった」と小さな声で語った。さらに、「欧米からABCD包囲網で経済封鎖され、戦争をせざるを得なかった」とも語った。「そこに至る外交的な失敗が原因だ」と話したが、それに対する答えはもうなかった。

 そんな父親が語ったことで鮮明に覚えていることがある。「軍隊というものはある人々にとってはとても居心地のよい場所だった」「平時の娑婆ではうだつの上がらない連中が古参兵となると、大学出の初年兵にビンタを食らわせる」「そんな彼らにとって軍隊は平等な社会だった」と....。

 わかっていたが、もう語らなかった。そのような軍隊の仕組みも巧妙に仕組まれたものであり、そんな一時の平等感、解放感も戦闘へと果敢に駆り立てる動機となっていたのだと。

 最初の疑問に戻ろう。一連のドキュメンタリー番組の製作者は「あの戦争は何だったのだろうか」との詠嘆に留まるのではなく、あの戦争は侵略戦争であり、敗戦をいまだに「終戦」と置き換えているのも間違いであると明確に語るべきだ。

 明治以来、急がなければ列強から植民地化されるとの恐れから、脱亜入欧を目ざしたのは一面で正しかった。問題は、その焦燥をアジアの解放という錦の御旗に置き換え、他のアジア諸国よりも優位にあると考えたことだ。我が国以前に、欧米列強は、より巧妙に植民地経営を行っていたし、どちらも似たようなものだった。何が間違いだったのか。アジアの人々の自決権を欧米列強共々に否定したことだ。

 致し方なく、今も国境は存在する。正確な国際法的な規定は知らないし、時に国会で繰り返される侵略の定義を云々しても仕方ない。それ以前にその国境を軍事をもって超えた瞬間に、すでに侵略だと考えるべきだ。

 父親に語らなかったことがもうひとつある。もしかすると、自身も含めて日本人の精神構造は全く変わっていないのではないかと。権力中枢にいた東条英機から末端の一兵士たちまで個人の善悪を云々しても仕方ない。詔勅によって戦争が終わった、それでしか終われなかったいう国体の構造。今でも、その「国体」は女性週刊誌の中に、どこかしこへの「ご静養」として語られ、最後まで残されたタブーとして存在し続けている。

[2008.08.15]

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