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 ミスターロンリー(原題:MISTER LONELY)。自分をマイケル・ジャクソンだと信じている青年が、マリリン・モンローとして生きる女性に恋をした。名曲ミスターロンリーが甘酸っぱい思いを呼び覚ましてくれる。

 監督は、ハーモニー・コリン。19997年の「ガンモ」。アメリカ中部に住む疎外された若者を妥協なき目で捉えた作品で監督デビュー。その独創的な物語展開と手持ちビデオカメラ、ポラロイドカメラの使用を絶賛された。小説「クラックアップ」、写真本「Pass the Bitch Chiken」も執筆、ビョークの2001年のアルバム「Vespertine」の曲「Harm of Will」の歌詞を共同執筆するなど多彩な才能を発揮。1997年、初ドキュメンタリー長編映画「Anthem」をクリスティン・ハーンと共同監督で作り上げ、映画芸術科学アカデミーの優秀ドキュメンタリー作品に選定、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭では国際映画批評家賞を受賞している。コリンならではの独特の世界観と衝撃の結末が見事。

 主人公のマイケル・ジャクソンを「天国の口、終りの楽園」のディエゴ・ルナ、マリリン・モンローを「CODE46」のサマンサ・モートンが演じている。

 2008年2月2日よりシネマライズ他全国順次ロードショー。




 遠くから小さなバイクに乗った人物が近づいてくる。彼は誰だろう。マイケル・ジャクソン。彼の格好をしているだけ....。

 その男はパリの街角でムーンウォークをしている。足下には投げ銭入れ。誰も注目しない。たまに投げ銭を入れても、馬鹿にしたような薄笑いで、立ち止まってもくれない。その男はマイケル・ジャクソンを演じているのだろうか。

 街でのパフォーマンスだけでは生きていけない。面倒見のいいプロダクションの男は職変えを勧めるが、男は聞き入れない。彼はマイケル・ジャクソンを演じているのではなく、マイケル・ジャクソンだと信じているからだ。

 ある日、老人ホーム慰問の仕事が入った。訪ねてくる人もない、ひとりぼっちの老人たちは、彼をマイケル・ジャクソンだと信じているかのように、パフォーマンスに拍手し、笑顔を振りまいてくれる。出番が終わって、休んでいると、次のパフォーマーが演じている。マリリン・モンローだった。

 彼は一目惚れした。彼女自身に...それともマリリン・モンローに。よくわからないのだ。人は誰でも、何かを演じて生きているのかもしれない。それが行き過ぎてしまい、自分へ戻るのをを忘れてしまった人たちがいる。自分以外の人格にアイデンティティを置かなければ生きられない、他人のモノマネをして生きている彼らはインパーソネーターと呼ばれている。




 慰問が終わり、二人はカフェで話している。目の前にいるのは本当にマリリン・モンロー....。そうでなくともいいのかもしれない。彼女の少女のような微笑みが愛おしくて仕方ないのだから。

 彼女はものまねアーティストたちの劇団に所属していると説明した。チャップリンもマドンナもエリザベス女王も、他にも沢山いるのよ。私たちのコミューンに来ない....。

 パリでの生活も潮時かもしれない。彼女と一緒にいられるなら、行ってみよう。そのコミューンは、スコットランドの深い森の中の城を拠点としていた。

 城に渡るため、二人はボードに乗って、湖を横切っていく。仲間の姿が見えると、彼女はマイケル・ジャクソンを連れてきたと大声で叫びながら、手を振っていた。




 城に着くと、沢山の仲間たちが歓迎してくれた。確かにチャップリンもいる。マドンナもいる。彼の中の似たような匂いをかぎつけ、誰もがマイケル・ジャクソンとして扱ってくれる。心地よかった。ようやく居場所を見つけられたのかもしれない。彼女ともいつも一緒にいられる。

 彼女はチャップリンと結婚していた。幼い子供もいた。それを知った彼は、彼女に近づくのを急にやめる。何が起こったの。彼女は彼のぎごちなさが気になって仕方ない。

 チャップリンの男はかなり年長だ。若く美しいままのマリリン・モンローとは不釣り合いなのを男も感じている。子供もいる。演じているだけでは現実の生活を維持できない。二人は現実との関わりの中で、本来の自己と演じている役との間で分裂し始めていく。

 それでもマイケル・ジャクソンはマイケルのまま。彼女は彼の好意をわかっている。私を愛しているの、それともマリリン・モンローが好きなの。彼女は一度だけ、彼を誘惑しようとする。それでもマイケルは踏み出せない。

 チャップリンもそれに気づいている。この城を抜け出し、一人の普通の女性として生きてみたい。彼女は混乱し始める。




 公演旅行に出かけても、観客は集まらない。生活も苦しさを増すばかりだ。この仕事しかできない彼ら。現実と触れ合う中で、彼らも本当の自己と向かい合わざるを得なくなっていく。

 仲間の中に苛立ちが広がっていく。マイケル・ジャクソンを演じているだけではないかと、彼も不安を募らせていく。本当の自分....。それを見つけられれば、彼女と城から抜け出せるのだろうか。

 そうだ。この城に観客を呼べばいいのだ。彼らは練習場を劇場に作り替え、街に出て、公演のチラシを配り始めた。最後の一大公演になるのかもしれない。それを薄々、感じながら、厳しい練習を続け、ようやく初日を迎えた。

 ドキドキしながら観客がやってくるのを待っていた。誰もやってこない。彼らは打ちのめされ、下を向いて、立ち上がる元気も失っていた。

 誰ともなく声を上げる。誰も来なくいいじゃないか。せっかくだから練習の成果を自分たちで確かめてみようと....。

 観客は仲間たち。次々と舞台に上がってパフォーマンスを披露する。こんなに楽しいことはなかった。エンディングには全員で歓声を上げていた。

 それでも空席が目に入る。カーテンコールはないのも知っている。最後には祭りのあとのような沈黙がやってきた。

 仲間と一緒に過ごすのはこれが最後だ。もうわかっている。だから飲み明かそう。誰かがマリリン・モンローがいないと騒ぎ出した。暗闇の中、必死に彼女を探し始める。そして皆は残酷な結末を目にする。




 人は何かを演じているのかもしれない。その演技性はどこからやってくるのだろうか。関係性の中からやってくる。こんな経験は誰にもあるはずだ。偶然、街中で、友人を見かける。その人はいつもと全く違った表情で別人のようにして歩いている。声もかけられない。

 太宰 治を思いだした。彼の作品は、全て関係の病を扱ったものだ。彼には関係性だけが世界の全てだった。関係性の中での自分、一人だけでいる自分。極端に乖離すると、多重人格、虚言癖のような症状を生み出す。太宰の優れた作品は、彼の虚言を書き連ねたものとも考えられる。

 メディアには自分探しの文字が踊っている。流行のスピリチュアル・セラピストも、本当の自分とはとプレッシャーをかけている。もう白旗を揚げて、降参してもよいのではないだろか。本当の自分などは見つからない。ありのままでよいではないか。

 そう思っても、すぐにもうひとつの分裂に気がつく。人は自分のためだけにも生きられないし、誰かのためだけにも生きられない。哀しいかな、優しさも愛情も対象を選ぶ。結局のところ、関係性の中にしか生きられない。彼と彼女はそんなことを教えてくれた。


監督:ハーモニー・コリン
製作総指揮:アニエス・ベー、ピーター・ワトソン
脚本:ハーモニー・コリン<アヴィ・コーリン
撮影:マルセル・ザイスキンド
キャスト:ディエゴ・ルナ、サマンサ・モートン、ドニ・ラヴァン、レオス・カラックス、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジョセフ・モーガン、アニタ・パレンバーグほか
2007年イギリス/フランス/111分
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
公式ホームページ

(C)2006 O\'South Limited, Love Streams agnes b. Productions, Metropolitan Film Productions Limited and Fuzzy Bunny Inc.

2008.01.20掲載
再会の街で(Reign Over Me)
アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生(ANNIE LEIBOVITZ: LIFE THROUGH A LENS)
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