最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!
top pagemovieスクリーンの向こうへ(バックナンバー)











 バレエ・リュス(原題:Ballets Russes)。20世紀初頭のパリに始まり、一度は解散した伝説のバレエ団の再生の歴史を追うドキュメンタリー。

 20世紀のあらゆる芸術とエンターテインメントに影響を与えた伝説のバレエ団"バレエ・リュス"。踊る歓び、生きる慶び....。

3人のベビー・バレリーナ(左よりターニャ・リャブシンスカ、タマラ・トゥマノワ、イリナ・バロノワ)
 今は老境を迎えたダンサーたちへのインタビューなどを交えながら、先駆者が担った苦闘と歓喜の歴史を紹介していく。監督はドキュメンタリー作品でエミー賞に輝いたダニエル・ゲラーとデイナ・ゴールドファイン。初公開となる貴重なアーカイブ映像も素晴らしい。

 物語は、1929年のパリ。天才興行師セルジュ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスは彼の死とともに終幕を迎えた。しかし、バレエ団の再興を目指すロシア人のド・バジル大佐とモンテカルロ劇場の監督だったフランス人のルネ・ブリュムは、ディアギレフの最後の振付師ジョージ・バランシンを芸術監督に任命し、新しい才能の発掘を始め、活動を再開する。

 2007年12月15日(木)よりシネマライズ・ライズXにてロードショー。




 バレエの起源はルネッサンス期のイタリアといわれる。宮廷で余興として行われていた詩の朗読、演劇などの一部としてバロ(Ballo)と呼ばれるダンスが演じられた。やがてフィレンツェのメディチ家から1533年にフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりバレッティ(Balletti)がフランスにもたらされ、バレ(Ballet)と呼ばれる。

 フランスでは、ルイ14世が5歳でフランス国王に即位した1643年、バレエが催され、国王自身が出演した。バレエに熱中したルイ14世は1661年に王立舞踏アカデミーを創立している。

 やがてバレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーも出現する。1671年にはオペラ座が設立され、男性ダンサーが中心だった宮廷バレエの技法を踏襲する女性ダンサーも人気を博するようになる。このようにして、上流階級の楽しみであったバレエは大衆の中に浸透していく。

 バレエ。我が国ではなじみの深い芸術ではない。この作品を観ることで、その素晴らしさに気づかされた。伝統的な基本技法に裏付けられながらも個々のダンサーの個性も際だっている。長い修練と才能の融合によって、自らの肉体ひとつでドラマとそこに息づく喜び、哀しみ、怒りといった感情を豊かに表現する。これだけ踊れたらどんなに楽しいだろうか。そんな思いにかられ、自然と身体が動いてくる。

左はバレリーナたちを指導するバラシン。
 初期のバレエ・リュスに参加したのは主に亡命ロシア人の少女たちだった。中でもターニャ・リャブシンスカ、タマラ・トゥマノワ、イリナ・バロノワは、3人のベビー・バレリーナと呼ばれ、バレエ・リュスの人気を支えた。

 美しい肉体を躍動させていた彼女たちもすでに老境を迎え、インタビューに答えていた。それでも思い出に耽溺するのではなく、その多くが現在もバレエに関わっており、バレエ・リュスの歴史を紡いでいる。そんな彼らの世紀を跨いだ長い旅の物語でもある。




 1909年のパリ、天才興行師セルジュ・ディアギレフのバレエ団の一夜だけの公演が人々を熱狂の渦に巻き込んだ。バレエ・リュスは、当初、ロシア・バレエ団と呼ばれていた。ロシア革命によってパリに亡命した人々を中心に結成されたからだ。

「バラの精」のジョージゾリッチ。映画「ビキン・ザ・ビギン」にも登場。
 このようにして20世紀初頭のパリに花開き、伝説のダンサー、ニジンスキーを生み、ストラヴィンスキーやピカソらと革新的な芸術のコラボレーションを創造した唯一無二のバレエ団だったバレエ・リュス。1929年のディアギレフの死とともに解散され、バレエは死んだとまでいわれた。

 1931年、ド・バジル大佐とルネ・ブリュムによってバレエ・リュスは再興される。ダンサーや振付師、舞台装置や衣装もディアギレフ時代を継承されていた。ド・バジル大佐によって芸術監督に任命されたレオニード・マシーンは、その斬新な振付で再び、熱狂的に迎えられ、マシーン時代の幕をあける。

 1933年の夏、新生バレエ・リュスはロンドンでデビューし、その年の終わりには、渡米を果たす。当時、米国ではバレエを知る観客はほとんどいなかったが、バレエ・リュスは観衆たちを魅了し、名も知れぬ地方都市でも、彼らの公演はどこも行列ができるほどの大盛況となった。




 成功とともに、独裁的になるド・バジル大佐とマシーンとの間に軋轢が生まれた。そこでマシーンは秘密裏に新バレエ団を結成すべく、新しいダンサー探しを始めた。やがて二人は決別し、二つのバレエ・リュスが生まれ、裁判に発展する。
 敗訴したマシーンは、自ら振付した演目の大半の権利を失うが、ディアギレフ時代さながらに画家のダリやマティスに参加を仰ぎ、別のバレエ団で活躍していた名バレリーナたちも加わり、素晴らしい舞台を造りあげた。引き抜き合戦も白熱化し、二つのバレエ・リュスによる一大バレエ戦争は大衆の注目を集めた。

 二つのバレエ・リュス。マシーンのバレエ団は米国へ向かい、ド・バジル大佐のバレエ団はオーストラリアへと旅立った。これが結果的に、バレエ不毛の地にバレエを広めることになる。
 1939年夏、二つのバレエ・リュスは欧州に帰るが、彼らを待ち受けていたのは第2次世界大戦だった。亡命ロシア人であるダンサーたちは、大半がパスポートを持っていなかった。ナチスがパリに迫っている。大混乱の中、二つのバレエ・リュスは同じ米国行きの船に飛び乗っていた。主宰者同士の反目は続いていたが、その船旅は、団員たちの交流の場となった。

タマラ・チネロバ・フィンチ。夫は俳優のピーター・フィンチ。
 ニューヨークに到着した夜、マシーンのバレエ・リュスはメトロポリタン歌劇場で公演、興行記録を塗り替えるほどの大成功を収めた。

 二つのバレエ・リュスは米国に残り、別々の専用列車でバレエを見たこともない人々の待つ町々を巡業する旅に出た。ダンサーたちは眠る間もなく劇場と列車を行き来し、厳しい環境の中でも踊りつづけ、やがて二年の歳月が流れていった。

 主演を演じたロシアの少女には母親が同行していた。彼女たちはまだ10代だった。インタビューに答えている。「ギャラも出たり、出なかったり」「でも踊れるだけで楽しかったの」。

 当時の米国の状況を露わにするエピソードも二人のダンサーによって語られている。レイヴン・ウィルキンソンはバレエ団唯一のアフリカ系の女性だった。ソリストの地位を得るが、人種差別が残る米国南部へのツアーに参加できなくなる。退団後、一度は修道院に入るが、ダンスの道に戻り、オランダ国立バレエ団でソリストとなる。74年に米国に戻り、ニューヨーク・メトロポリタン・オペラで現在も舞台に立っている。

 マリア・トールチーフはネイティヴ・アメリカンの血をひいていた。バランシンに見出された彼女ほどなく彼と結婚するが、やがて離婚、ニューヨーク・シティ・バレエに移り、エリック・ブルーンやルドルフ・ヌレエフとも共演。58年には来日公演にも参加し、65年までプリマを務めた。引退後は、シカゴ・バレエのディレクターに就任した。

 マーク・プラットは、マシーンに見出され、最初にバレエ・リュスで踊った米国人の男性。米国人がバレエを踊る....。とても受け入れられないだろう。そこで名前をロシア風のプラトフに変えた。退団後は、映画「掠奪された七人の花嫁」にも出演、舞台では「オクラホマ!」の夢の男ローリーを演じた。その後、62年からラジオシティ・ミュージックホールのバレエ監督兼プロデューサーを務めた。このようにしてバレエ・リュスが米国に蒔いたバレエの種子はその後のエンターテインメントの中に根付いていった。




 またも問題が起こる。1941年、米国の興行主・ヒューロックとド・バジル大佐が絶縁、戦火の欧州へも戻れず、彼のバレエ団は中南米へ旅立った。公演は成功を収めたが、長引く戦禍のため中南米の経済は困窮を極め、巡業も4年目に終止符が打たれる。そして、1948年11月8日、ド・バジル大佐のバレエ・リュスは幕を閉じた。

ミア・スラヴェンスカ。7歳でザグレブ国立オペラ劇場に立つ、UCLAダンス学部でも教えた。
 マシーンのバレエ・リュスは戦時を生き延び、ダンサーたちにはハリウッドからも声がかかる。しかし、マシーンは次第に贅沢な生活に溺れていき、興行面でも失態が相次ぐ。そのため、1942年、マシーンは団長デナムにより、自身のバレエ団から解雇され、マシーン時代も幕を閉じた。

 デナムのバレエ絵団は、1944年夏にはブロードウェイに進出し、ミュージカルのフィナーレを飾った。ここにバレエは米国のミュージカルとも融合する。それら画期的な舞台の振付をしたのは、元バレエ・リュス芸術監督のジョージ・バランシンだった。しかし、バランシンは、現在のモダン・バレエに引き継がれる独自のバレエ団を夢見ていた。19947年に退団したバランシンは、バレエ・ソサエティを結成、その後、ニューヨーク・シティ・バレエと改名し、米国のバレエ芸術を生み出した。

 一方、デナム率いるバレエ・リュスはマンハッタンを拠点にバレエ学校を設立、多くの若者たちが入団したが、バランシンを失ったことで、演目もマンネリ化し、クラソフスカ、ダニロワ、スラヴェンスカらスター・ダンサーが次々に去っていく。財政難の中、再び、米国内を巡業するが、1962年4月14日、ブルックリンの音楽アカデミーでの公演がバレエ・リュスの最後の舞台となった。




 本作の発端となったのが2000年6月、ニューオリンズでのバレエ・リュスの同窓会だった。世界中に散らばっていた団員たちは一堂に会し、40年ぶりの再会を果たした。溢れるばかりの若さでバレエを踊ることを謳歌していた少女たちは80歳、90歳を迎えていた。

 そこにはフランクリン、スラヴェンスカ、ゾリッチら、バレエの歴史を築きあげた人々と共に、一群のバックダンサーとしてバレエ団を支えた無名のダンサーたちの姿もあった。バレエに関わり続けたもの、すでに離れたもの。長い旅は終わった。40数年の歳月は、もう何処かにいっていた。踊る歓び、生きる慶び....。音楽が流れれば、あちこちでダンスが始まる。車椅子のまま踊るダンサーもいた。

 バレエには演劇や映画のように言葉は介在しない。その点で演ずるという点においても決定的に異なる。自らの肉体のみを通してドラマとそこに生きる人間の感情を表現する。彼らにはバレエを経験したことのないものには理解しがたい困難と、それを乗り越えた大きな歓びがあるのだろう。

 主宰者の金銭面での逸脱や団員同士の内紛、戦禍の中で亡命者としてよるべき祖国を失った哀しみ。それら全てを乗り越え、世界中に散り散りとなったダンサーたちはバレエ・リュスで踊った歓びを糧にして、世界各地でバレエの歴史を次の世代へと引き継いでいる。

 こんな人たちがいたのだ。老境を迎え、肉体は衰えたが、彼女たちの笑顔は、踊ることだけを歓びにして、世界中を旅していた頃の少女のそれだった。


監督:ダニエル・ゲラー、デイナ・ゴールドファイン
撮影:ダニエル・ゲラー
原案:ジョー・エスターハス
ナレーション:マリアン・セルデス

2005年/アメリカ/上映時間118分
公式ホームページ
http://www.balletsrusses.net/

2007.11.21掲載
君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956(Children Of Glory)
once ダブリンの街角で(Once)
movie






Copyright (C) 2012 Archinet Japan. All rights reserved.