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 オール・アバウト・マイ・マザー(原題:TODO SOBRE MI MADRE)。1999年、アカデミー賞外国語映画賞を受賞。

 監督はペドロ・アルモドバル。スペインを代表する映画監督の一人。スクリーンの色が全て原色に見えるほどの圧倒的な色彩感。目に飛び込んでくる血の真紅。どこまでも高い空の蒼。突然、訪れる死と密かに現れる死者の幻影。

 臓器移植、ドラッグ、同性愛、エイズ、シングル・マザーといった現代的な事象が登場するが、それらを内在する性の放逸と生の充満が主要なテーマだ。そして、深く潜在している死への親和性。

 自らの人生を生ききっているのは女たちだ。男たちは彼女たちに陰のように寄り添っている。ペドロ・アルモドバルの多くの作品を解く鍵は、きっと母性(母親)の実在と父性(父親)の不在に違いない。




ゴールデングローブ賞授賞式にて
 ペドロ・アルモドバルとはどんな人物なのか。1951年にスペイン・カスティーリャ・ラ・マンチャ州に生まれている。ラマンチャ。風車に闘いを挑んだドンキ・ホーテの故郷だ。

 独裁者フランコの死去とフアン・カルロス1世の国王即位は1975年。1978年には新憲法が承認され、立憲君主制に移行。彼は青年期をフランコ独裁政権下で生きた。

 劇的な民主化への移行期には反権威的な音楽・絵画・映像などの芸術活動に加わり、パンクバンドにも所属していた。自主制作の「Pepi, Luci, Bom y otras chicas del monton」で高い評価を受け、その後、精力的に作品を発表するようになる。

 2003年には、これも死がテーマの基底にある作品、愛する女性が昏睡状態となってしまった二人の男が主人公のトーク・トゥ・ハー(Hable con ella)、2004年には、彼の半自伝的作品といいわれる神学校での性的虐待を描いたバッド・エデュケーション(La Mala educacion)、そして2006年には、本作の連作ともいえるボルベール(Volver)を発表している。

 同性愛者としての自身の存在。それと深く関係しているであろう母性(母親)の実在と父性(父親)の不在。繰り返し語られるテーマだ。




 物語は、マドリードに住むシングルマザーと高校生の男の子の登場で幕を開ける。臓器コーディネータをしているマヌエラ(セシリア・ロス)は息子のエステバンとまるで恋人同士のように仲が良い。

 作家志望のエステバンは、日々の出来事をアフォリズムのようにノートに綴っている。ある日、二人は、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を観るために劇場に向かう。雨の日だった。観劇後、マヌエラの制止を振り切って、女優ウマ(マリサ・パレデス)にサインをもらうために彼女の車に向かって走り出したエステバンは車にはねられ、あっけなく死んでしまう。

 この親子には秘密があった。マヌエラはエステバンに父親のことを語っていなかった。エステバンはノートに記していた。「僕は半分だけの存在」だと。

 父親のことを生前に証せなかった後悔もあり、仕事を辞め、部屋に籠もり、涙を流し続けているマヌエラ。臓器コーディネータだった立場を利用して、エステバンの心臓を移植した人物を捜し出し、会いに行く。その人物の退院の日、遠くから彼を眺めても、哀しさは増すばかりだった。




 マヌエラは唐突にバルセロナ行きの列車に乗る。彼女が向かったのは売春婦がたむろし、それを品定めする男たちが集まっている場末の広場だった。

 マヌエラは誰を捜しているのか。夜の闇の中で二人の人物が争っている。一人はマヌエラが探していたアグラード(アントニア・サン・フアン)だった。相手の男を叩きのめした二人は急いでその場を離れる。マヌエラがたどり着いたのはアグラードの部屋だった。二人は再会を喜びながらも、エステバンの死に涙を流す。

 アグラード。シリコンを胸や尻に入れて女を装っている。商売道具はオーラル。ペニスは残っている。彼女も異形の人だ。

ゴールデングローブ賞授賞式にてロサ役のペネロペ・クルス。
 まだ誰かを捜しているマヌエラ。ある日、売春婦の更正を支援している修道女シスター・ロサ(ペネロペ・クルス)に出会う。

 マヌエラのために仕事を探すロサだが、売春婦あがり(だとロサは思っている)の女性に仕事を世話するところはない。

 やがてロサは、マヌエラが料理が得意だと聞き、思いあまって自宅に連れて行く。マドリードの高級住宅街に、その家はあった。

 裕福な家庭に育ったにも関わらず、ロサは、反政府勢力に殺害された修道女の代わりにエルサルバドル行きを希望している。ロサも信仰と献身に身を投げ出さざるを得ない心の空白を抱えている。母親はロサの行動を理解できず、マヌエラを伴って帰宅したことを口汚く、罵る。母親も問題を抱えている。夫が痴呆症を発症していたのだ。




 ある夜、マヌエラは、偶然、女優ウマに再会する。マヌエラは再び「欲望という名の電車」に出演している女優ウマの楽屋に招かれる。

 大女優として賞賛を浴びている彼女にも手に負えない存在があった。共演者でドラッグ・ジャンキーのニーナだ。二人はレズビアンとして公私ともに暮らしていた。

 女優ウマの信頼を得たマヌエラは彼女の世話をする仕事につく。マヌエラは若い日に演劇活動をしていた。まだ女優ウマに、そんな経歴もエステバンのことも話していない。

 「欲望という名の電車」開演の直前になってもニーナが楽屋に姿を現さない。代役として舞台に立ったマヌエラは観客から賞賛され、それを知ったニーナは嫉妬も交えて、マヌエラを罵り始める。

 体調を壊したロサはマヌエラの勧めで病院に行く。彼女は妊娠していた。何か不安があるのか。ロサは父親のことを誰にも決して語らない。エイズ検査の結果、陽性だと判明する。

 家に帰れないロサはアグラードの部屋に身を隠す。居間の机の上に置かれたエステバンのノート。ロサがノートを開くと、マヌエラはそれを激しく咎める。やがてマヌエラは息子の死をロサに語り始める。

アグラード、マヌエラ、ロサの三人。
 アグラードの部屋で、マヌエラを献身的にロサの世話をし、三人の女性は交流を始める。そこに女優ウマが訪ねてきた。

 あの雨の日、ようやく、サインを求めて近づいたのがエステバンであることを告げる。車の窓ガラス越に見たエステバンの顔をはっきりと思い出したウマは、サインを断ったことを謝罪し、共に彼の死の哀しみを分かち合う。

 それぞれに生きるのが下手な女性たち。母性(母親)の実在を象徴する女たちが運命の糸に導かれ、集まってきた。致し方なく抱え込んだ現実を忘れるかのように、酒を飲み交わし、笑っている。




 スペインがEUに加入したのは1986年6月1日。主要なEU加盟国との経済的な格差は続いているが、すでにグローバル経済の中に組み込まれた。一方で、いぜんとして、その歴史的からスペインはEUの中でも異彩を放っている。

 スペイン、その異彩の背景には何があるのだろうか。それはかつて植民地だったメキシコから南米のへと繋がる親和性だと思える。

 メキシコからの不法移民は米国社会の中に深く浸透し、彼らはその存在を強く主張し始めた。次期大統領選挙では、大きな影響力を行使するだろう。
 南米では米国のグローバル経済と一局支配に反抗するような左派・中道政権が続々と登場している。南米は自らの裏庭だと思っているブッシュは、それがとにかく気に入らない。開発独裁的な危険性も抱えながら、それら左派・中道政権は豊富な石油資源やエタノール生産などを武器にして、経済、社会システムの転換と自立への試行錯誤を続けている。

 ロサがエルサルバドルに行こうと考えていたように、大西洋を越えて、スペインはメキシコや南米の国々と深く親和している。このようなスペインのEUの中での特異性は、今後の政治的、経済的な動向に決定的な影響を与えるかもしれない。

 現在はアルゼンチンでも女優として活躍しているが、マヌエラ役のセシリア・ロスは母国が軍政下にあった70〜80年代にはスペインに亡命していた。

 かつての独裁。そのくびきからの自立。ペドロ・アルモドバル監督と彼の描くスペインには、そんな遠い記憶が陰を落としている。




 エイズを患ったロサは病院のベッドに横たわっている。誰の子を宿したのかも語らないロサ。訪ねて来た母親は、マヌエラに「娘のことが理解できない」と苦悩を露わにする。

 ロサは男の子を産み、突然、物語から姿を消す。その男の子を伴ってロサの実家をマヌエラが訪ねる。痴呆症が進行したロサの父親は、そのことが理解できない。母親は男の子をマヌエラに託す。

 ロサの葬儀の日、墓地へ続く階段を喪服の女性が杖をつきながら降りてくる。彼女に駆け寄るマヌエラ。この女性も異形の人だ。バイセクシュアルのロラ。

 マヌエラの息子エステバンの父親だった。死期が近いのを悟っているロラは息子のことをたずねる。エステバンの死を告げるマヌエラ。

 カフェで男の子と誰かをマヌエラが待っている。訪れたのはロラだった。マヌエラは、この男の子がロサとの間に生まれたロラの子であり、エステバンと名付けたと話し、生前のエステバンのポートレイトをロラに渡した。彼女はそれを手元に置き、マヌエラの許しと共に死を迎えた。

 幼いエステバンの母親ロサがエイズであったことを知られないため、バルセロナを離れ、マヌエラとエステバンは皆の前から姿を消す。数年がたった。奇跡が起こる。エステバンのエイズが陰性となったのだ。その喜びを抱えて、マヌエラとエステバンは、再び、バルセロナへと向かう列車に乗り込んでいた。

 誰からも祝福されないエステバンを宿し、逃げるように、バルセロナに向かったマヌエラ。今は、希望の証としてエステバンを胸に抱き、バルセロナに向かう車窓を眺めている。




 この物語と新作のボルベール(Volver)に通底しているテーマがもうひとつある。それはマヌエラがロサに与えたような献身的な愛情だ。

 通俗的にいえば、献身するものは、見返りを必要としている。マヌエラの献身は、それとは全く違うものとして描かれている。ただ与えているだけだ。見返りからも強く自立している。

 監督のペドロ・アルモドバルは何をいいたいのだろうか。それこそが母性(母親)の実在だといいたいのだろうか。

 同性愛者としての自らの存在。それには男性性への疑念が含まれているのかもしれない。父性(父親)の不在を受けとめられず、「僕は半分だけの存在」だとノートに記した生前のエステバン。エステバンは、自らの分身でないが故に、物語の中であえて殺し、父性(父親)の不在を強調したのではないか。それだけ、この監督の作品の中では、男が簡単に死んでいく。

 一方で、現実の混沌と多様性を受け入れ、しぶとく生き残っている主人公の女性たち。この監督は、そんな女性性の中に可能性を見出し、女性性によって、新たに世界認識の方法を構築しようとしているのではないだろうか。

 マヌエラの献身には、大西洋を渡り、南米へと広がる価値の多様性に繋がる女性性の象徴としての秘密があるように思えてくる。


監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
キャスト:セシリア・ロス、マリサ・パレデス、ペネロペ・クルス、アントニア・サン・フアン、ロサ・マリア・サルダほか
1998年/スペイン /カラー/101分
配給/UIP映画
公式ホームページ(英語)

(C)ギャガ・コミュニケーションズ

2007.03.05掲載
ホリディ(THE HOLIDAY)
ママの遺したラブソング(A Love Song For Bobby Long)
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