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『全般的に迷妄というよりも、自由とはなんだということについて何にも考えていないんじゃないかという意味合いで迷妄だというふうになるから、両方とも手前味噌なことをいっているねという以外の感じは持てないですね。」


 自由ということについて、吉本さんは、「よくもずうずうしく永遠の自由のために戦うんだみたいなことをいえるものだね、とアメリカに対しては思います。」、そして「イスラム原理主義というものは、貧乏国家という意味でもいいし、そういうものを生命にかえても信仰している人たちにとっても、どっちでもいいですけれども、それを初めから理解する気も全然ないし、しないということが歴然として出てきていますね。」と言っています。

 イスラム原理主義の方については、「ブッシュが自由という言葉を出しているんだから、自由でもいいですけれども、自由を理解していないよ。これで命を捨ててもいいということは迷妄なんだよ。」ともいっています。

 ここでいう自由とは、いったい何を指しているのでしょうか。アメリカが標榜し、世界中に押しつけようとしているアメリカ型の自由ではないでしょう。

 吉本さんは、私たちは市民社会のルールを守って暮らしいてるけれど、考えるということには法律の制約も、一切の制約もうけないし、そこは自由なんだ、といっています。そういう人の本姓とは外れた所でアメリカが自分勝手に自由を迷妄し、またその迷妄に対して、イスラム原理主義の方も、迷妄で対立し、命さえも捨ててもいいと迷妄している。それは両方とも、自由ってことはわかってないよ、ということなのでしょう。

 人間がその歴史の中で、わうやく獲得した現在、最も先進的な政治形態として民主主義があります。そこでは、この国でもそうであるように、「信仰の自由」が認められています。国家が信仰と結びつくと、どんなにひどいことになるのか。また、逆に国家の利益と信仰(集団)が相容れないと、どんなひどい弾圧をしてきたのか。そんな反省から、「信仰の自由」という概念が生まれ、政教分離も体現されたはずです。

 そして、少なくとも、歴史の現段階では、「信仰の自由」では、個人の内面の信仰の自由は認めるとこるまではいっています。もう少し加えるならば、個人の内面の信(仰)の構造までは認めています。

 信仰の対象がさまざまに異なるにしろ、信(仰)の構造というものは変わらない。だからこそ、前に述べたように、考える(信の構造)ということには法律の制約も、一切の制約もうけないし、そこは自由なんだということ。異なる、信(仰)の構造は尊重すべきだと。

 そこから俯瞰すれば、ブッシュの自由も、それに対するイスラム原理主義のやり口も、みずからの信(仰)の構造=自由をも内包している=自体を否定している。ここに迷妄の本質があるのでしないでしょうか。

 そしてまた、自由という人間の本姓を理解すれば、「生まれてそこに「いる」こと自体が、「いる」ということに対する倫理性」としての「存在倫理」に考えが至るということなのではないでしょうか。



「その両方に対して、今の僕なら僕自身の場所からそれを見ていると、よくもずうずうしく永遠の自由のために戦うんだみたいなことをいえるもんだね、とアメリカに対しては思います。そういうふうに言及することは、イスラム原理主義というものは、貧乏国家という意味でもいいし、そういうものを生命にかえても信仰している人たちにとっても、どっちでもいいですけれども、それを初めから理解する気も全然ないし、しないということが歴然と出てきていますね。
 イスラム原理主義の方を見ると、先ほどいいましたように、ブッシュが自由という言葉を出しているんだから、自由でもいいですけれども、自由を理解していないよ。全般的に迷妄というよりも、自由とはなんだということについて何にも考えていないんじゃないかという意味合いで迷妄だというふうになるから、両方とも手前味噌なことをいっているねという以外の感じは持てないですね。」

「群像2002年1月号」(講談社)(P208)
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