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『人間が存在すること自体が倫理を喚起するものだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌ないい方とやり方は理解できないんじゃにいかという感じ方になっちゃうんです。』


 もうすぐ9月11日がやってきます。すると、また、あの映像をテレビで観ることとなるでしょう。米国ではすでにブッシュ氏は退場し、オバマ政権はイラクからの撤退準備を進めています。一方で、アフガニスタンをテロとの闘いの主戦場と位置づけ、増派をしました。そのアフガニスタンでは死者の数が急激に増えており、米国民の過半も、「この闘いには意味がない」と感じ始めているとCNNが報じていました。

 2001年9月11日の米国同時多発テロ(と呼ばれている)に対する「群像2002年1月号」での加藤典洋氏との対談での吉本さんの発言です。その巻頭には2001年11月1日に対談が行われたと書かれています。

 この問題について、その前には、「吉本隆明が語る戦後55年」の第7号で山本哲士氏との対談がありました。その対談は、2001年9月17日に収録されたとありました。この段階では、まだ詳しい情報が入っていないのでということで、吉本さんは発言を控えていた部分もありますが、加藤氏との対談で、加藤氏も、その「存在倫理」という言葉は「本邦初公開」と言っているように、初めて目にしたものでした。

 吉本さんは、こう言っています。「イスラム原理主義の方も、ブッシュの方も、それぞれが迷妄で、両方とも手前味噌なことを言っているだけなんだ」と。「それに対抗するために、「存在倫理」というものを設定するのだ」と。

 また、この「存在倫理」については、こう言っています。『そこに「いる」ということは、「いる」ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに「いる」こと自体が、「いる」ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか。』と。

 この「存在倫理」について、もう少し先まで聞きたいと思っています。「いる」こと自体が、いるということに対して倫理性を喚起するものなんだ、という部分は、ただ単なるヒューマニズムで「生きていることは大切なんだ」「人の命というのは大切なんだ」とだけ、吉本さんはいっているようには思えないからなのです。

 きっと、こうなのではと考えてみました。「イスラム原理主義の方も、ブッシュの方も、それぞれが迷妄」であり、「人の命というのは大切なんだ」との浮ついたヒューマニズムでも現実に対抗できないのであれば、全ての思想を無化するものとして、ただ、「そこに存在する」ことだけを位置づける。自らの立場だけを主張する党派的な思想に、別の立場からの党派的な思想を対抗させるのではなく、その方法自体を無化していまう。そんな地平を示唆しているのではないでしょうか。



「結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかと僕が思えるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌ないい方とやり方は理解できないんじゃにいかという感じ方になっちゃうんです。「存在倫理」という倫理の設定の仕方をすると、つまり、そこに「いる」ということは、「いる」ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに「いる」こと自体が、「いる」ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。そういう意味合いの論理を設定しないとダメなんじゃないか。」
「群像2002年1月号」(講談社)(P208)

「群像」(講談社)(2002年1月号)
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