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『それが、距離が縮まり、性的な行為をするほど近づいても、最初に感じた一瞬の片思いみたいな気持ちをずっと持続できる--そういう女性がいたならば、それが僕の"理想の女性"だということになると思います。』

 こんなふうにいわれると、とてもよくわかります。そして、どうも男性から女性への距離感を考えると、この「片思い」ということがキーワードのように思えてなりません。

 でも、こんなことをいうと女性には、「何いってんだか」とかいわれそうで、少し怖い気もあります。

 吉本さんには「少女」という詩があります。こんな一節があります。

えんじゆの並木路で 背をおさえつける
秋の陽のなかで
少女はいつわたしとすれ遭うか
わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きっとわたしがみえない
すべて明るいものは盲目とおなじに
世界をみることができない
なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏ぎられた生活かとおもう
けれど それは
わたしだ

生まれおちた優しさでなら出逢えるかもしれぬとおもい
いくらかはためらい
もつとはげしくうち消して
とおり過ぎるわたしだ
小さな秤でははかれない
彼女たちのこころと すべてのたたかいを
過ぎてゆくものの肉体と 抱く手と 零細を
たべて苛酷にならない夢を
彼女たちは世界がみんな希望だとおもつているものを
絶望だということができない
「吉本隆明全著作集I(※草書房)(P189〜190)

 この「一瞬の片思い」という言葉を読んだ時に、この「少女」という詩を思い出しました。男にとって「少女性」はいつも謎めいています。少なくとも私にはずっとそうです。まだ女性になっていないから、かえって女性性の本質のようなものが露わになっている。ボーボワールとは「女性になるのだ」と女性性の社会的な側面も含めて語りましたが、男としての性的側面から考えると、どうも「女性は女性として生まれる」といわざるを得ません。それはロリータコンプレックスとどこかで繋がっているはずですし、「ロリコン」の王道は強い拒否感だとも思えます。

 吉本さんは「初期の問題」は大切だよ、といっています。そうだとすると、ここには吉本さんの「片思い」としての女性への思いが表現されていると思っています。

 また、吉本さんは、幼少期に、母親に愛されたという記憶がないんですよ、といっています。そして、それにも関わらず(なのか)、歳をとると、理想の女性のイメージというものが母親に近づいていくよともいっています。

 この「片思い」というのは少し違うとも思うのですが、あえて結びつけると、「片思いみたいな気持ちをずっと持続できる」ということと、歳をとると母性に向かうことはどこかで関係があるはずです。



「たとえば、東京の銀座通りとかを歩いていて、目の覚めるような顔立ちや姿をした女性が向こうからやってきて、すれ違ったとしますね。その瞬間、「あっ、いいな」と思うでしょ。それは一瞬の片思いですね。
 でも、たいていの場合は、「あっ、いいな」と思うのは、距離が離れているからであって、距離が縮まり、肌が接するほど近くなったら、幻滅しちゃうということもよくあります。
 それが、距離が縮まり、性的な行為をするほど近づいても、最初に感じた一瞬の片思いみたいな気持ちをずっと持続できる--そういう女性がいたならば、それが僕の"理想の女性"だということになると思います。
 でも、生涯、そういう"理想の女性"に一度も会えずに終わるというのが普通ですね。だから、そういう女性に会えたら、「すごいなあ、もう、いうことは何もないよ」ってふうになると思います。」

出典:「超「20世紀論」(上)(アスキー)(P182)』
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