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『[アンネの日記]について。(略)こういうふうに、きちんと物事を見ることができる少女であれば、素晴らしい女性になると思いますね。援助交際をしたり、"フェミニストの女史"になったりしないことは確実です。』

 「アンネの日記」はずっと以前に読みました。ただ、あまりにもよく知られた本ですし、ナチに迫害され、アウシュビッツで殺害された悲劇のヒロインという面が強調されすぎていて、そんな先入観で読みました。

 それでも、人間というのは、どんな苛酷な状況でも、同じようなものだと思った部分もありました。隠れ家でも、日常は淡々と過ぎていきますし、その中でも、男の子との淡い恋愛感情のようなものも存在できるのだ。それは清々しさとして残っています。

 一方で、その男の子との関係は、アンネの方が姉さん的で、少し危ない関係を演出していた面も感じました。年齢が近い場合には、女の人が姉さんを演じるのはどこでも共通なんだと思ったものです。

 女の人が自分の性器を観察する。とても聞けないことです。きっと、吉本さんの言葉の重要なポイントは「単に科学的に観察するだけじゃなく」「そこには男の子に対するエロスみたいなものもちゃんと含まれています」ということだと思いました。

 思うに、アンネがごく普通のこととして自分の肉体を通して性を理解し始めている。その性を前提として、「男の子に対するエロスみたいなもの」も媒介として関係を築き始めようとしている。そんなふうに感じました。彼女が生き延びられたら、とても素敵な女性になったに違いない。そう考えると、憤りを感じます。

 何故、売春が悪いのか、援助交際が悪いのかと問われると、うまく答えにくい部分があります。援助交際の背景には、家庭や学校の中での自分の居心地の悪さがあって、そのことへの苛立ちや自傷行為のようにも思えます。そこには、アンネのように、性を媒介とした姉さんを演じるような「少し危ない感じの遊び」も含まれていませんし、だから買う方のオヤジ達はカネのかたまりにしかみえない(みない)のかもしれません。そして、彼女たちは、もしかすると、自分の肉体が嫌いで、消し去りたいとさえ思っているのかなとも考えられます。

 同年代の男の子の方はといえば、まだ幼くて、「少し危ない感じの遊び」の対象とはなかなかなりにくく、「ちゃんとしたエロスの対象」とはなりにくい。それなら男の子の方は、アダルト・ビデオでも観ている方がいいや、と思うのも、何となく理解できます。



「女性器の表現ということについていえば、僕が一番感心したのはアンネ・フランクが書いた「アンネの日記」ですね。ナチの迫害から逃れるために、ユダヤ人であるアンネは隠れ家に住んでいるのですが、そこで、同じように隠れ住んでいる違う家族の男の子と仲良くなります。それで、その男の子から性器のことを聞かれたりして、アンネはあるとき、鏡を下に置き、そこにしゃがみこんで股を開いて、自分の性器を観察してみるんです。それで、これが大陰唇、これが小陰唇と、自分で性器の形とか構造とかを正確に観察していくんです。単に科学的に観察するだけじゃなく、そこには男の子に対するエロスみたいなものもちゃんと含まれています。
 こういうふうに、きちんと物事を見ることができる少女であれば、素晴らしい女性になると思いますね。援助交際をしたり、"フェミニストの女史"になったりしないことは確実です。」

出典:「超「20世紀論」(上)(アスキー)(P181〜182)
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