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 2007年も終わろうとしています。米国では年明け早々に大統領選挙に向けた党員集会が開かれます。メディアでは治安回復がみられるとの報道もありますが、イラク政策の転換について喧しいです。

 自身も含めて、どうも人は歴史上の誤りを「学習」しないようです。我が国でも政権が変わり、新しい首相が誕生しました。そんな中、教科書での沖縄戦の記述を巡り、かつての戦争をどのように総括するのかも試されています。

 今回は、永井荷風/断腸亭日乗です。文学者がどのように、戦争をくぐり抜け、戦後を見たのか。万人に当てはまるものではありませんが、「勇ましさ」とは対極の姿勢について考えてみたい今日この頃です。




 永井荷風は、1879年(明治12年)、現在の東京都文京区小石川に生まれています。一高(東京大学)の受験に失敗、東京外国語学校に入学しますが、そこも除籍。その頃、小説家の広津柳浪に師事し、小説家を目指しました。

 その後、アメリカ、フランスを遊学、エミール・ゾラの影響を受けた「地獄の花」で注目を浴びました。帰国後、「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表し、谷崎潤一郎などとともに耽美主義に傾倒、ボードレールやヴェルレーヌなどフランスの詩人の作品を紹介しています。

 このように、海外事情にも通じ、森鴎外の推薦で慶應義塾大学教授になり、「三田文学」を主宰するなど、彼は、当時の知識人、エリートでした。そんな彼は、やがて江戸時代の戯作者に傾倒し「腕くらべ」など花柳界を舞台にした花柳小説を発表します。

 フランス文学に対する深い造詣から、何故、江戸文学や花柳界へ関心を移したのでしょうか。背景には、大逆事件、二・二六事件など軍国主義的な世相に対する抜きがたい違和感があったようです。

断腸亭日乗()・()/岩波書店
 断腸亭主人の号を付した日記が「断腸亭日乗」です。大正中期から死の前日まで書き継がれています。死後の公表を想定していたのかはわかりませんが、戦前から戦後までの、我が国の社会世相・風俗の変遷が生き生きと、また辛辣に描かれています。

 日米開戦の四日後の12月12日にはこんな記述が「断腸亭日乗」にあります。

『十二月十二日。開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ、進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじり、むかし英米我等の師、困る億兆火の車とかきて、路傍の共同便処内に貼りしと云う。現代人のつくる広告文には、鉄だ力だ国力だ、何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。まことにこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。』

 進め一億火の玉.....。この言葉は駄句駄字といふべし.....。時代が変な方向に向かっている。それでも彼は花街に向かい、わざわざ客足は変わらないと書いています。人とはそんなものだろうと。海外事情に通じた彼は、やがてやってくる敗戦も想定していたのかもしれません。そんなことは口には出せないし、回避する現実的な方策はない。

 この戦争は駄目だ。冷徹な目で時代を見通し、遊興の中に身をやつした文学者がいました。「鉄だ力だ国力だ」という勇ましさは、何の有効性もない。そんな視点は、今また、勇ましさが跋扈し始めている中で、考えてみたいものです。




荷風さんの戦後/筑摩書房
 永井荷風を巡る一冊の本が注目されています。半藤一利氏の「荷風さんの戦後」です。永井荷風が戦後をどのように生きたのか。「断腸亭日乗」を辿りながら書かれています。

 永井荷風は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で自宅を焼き出され、膨大な蔵書を失っています。その後も住まいを転々としながら、三度も焼き出されています。

 やがて市川に居を定め、そこから頻繁に浅草に通います。ストリップ小屋に入り浸り、踊り子たちに囲まれ、踊り子選考の審査委員団長までしています。ちなみに「面白半分」(1972年7月号)に掲載され、猥褻裁判として編集長の野坂昭如氏らの有罪が1980年に最高裁で確定した「四畳半襖の下張」は荷風の小説に加筆したものともいわれています。

 「荷風さんの戦後」には、そんな荷風の「エロ爺」三昧と共に、全財産を鞄に入れて持ち歩いていたり、最後は誰にも看取られず、孤独の中に死んだことなどが書かれています。

 半藤一利氏はノンフィクション作家として「ノモンハンの夏」などの著書があります。2006年7月20日に日本経済新聞が「昭和天皇が靖国神社A級戦犯合祀に不快感」報じた際、原資料となった富田朝彦元宮内庁長官の日記メモ(富田メモ)を鑑定し、本物と認定しています。そして朝日新聞紙上に寄稿し、ノンフィクション作家として膨大な戦史調査などに基づき、大東亜戦争は明確に侵略戦争であったと論じていました。

 荷風が亡くなった際にも、文藝春秋の編集者として半藤一利氏は自宅にいち早く駆けつけています。そして「荷風さんの戦後」には、自宅が膨大な洋書で溢れていたこと。「小さな机の上に眼鏡とならんで開かれていたのは洋書であったと記憶している」と書いています。

 ストリップ小屋に通い詰めるひねくれきったエロ爺は、死ぬまで間際まで絶えず何者かに向けて思考し続けていたわけです。どこかおかしい時代の「勇ましさ」を静かに見極める。そんな荷風に半藤一利氏は親近感をもって「荷風さんの戦後」を著したのでしょう。

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